ローマ帝国時代にはガリア・ナルボネンシス属領の主要都市の一つ。5世紀に蛮族の侵入によって荒廃した後、737年にカール・マルテル率いるフランク人によって滅ぼされた。カール・マルテルが戦っていたアラブ人の側についたことによるもの。後、ブルグント王国、ついでアラス王国領となる。12世紀末、都市は独立を宣言し共和制をとる都市国家となるが、長くは続かず、アヴィニョンはプロヴァンス公領、次いでトゥールーズ伯領となった。中世末のカタリ派運動のなかではカタリ派を支持した結果、1226年にアルビジョア十字軍を率いたフランス王ルイ8世によって占領され、武装解除された。カタリ派を支持した街への処罰として、市の城壁は破壊された。
キリスト教が入ったのは早く、70年に司教座が置かれた。1309年にクレメンス5世がアヴィニョンを居城に定め、1377年までローマ教皇庁所在地とした(アヴィニョン捕囚)。1426年に大司教座がおかれた。1303年にアヴィニョン大学が開かれ、フランス革命まで続き、法学で知られた。
アヴィニョン捕囚時代の半ば、1348年に領主プロヴァンス女公(ナポリ女王)ジョアンナから教皇クレメンス6世に市が売却された。以後、フランス革命で没収されるまで、教皇領となった。何人かの対立教皇はアヴィニョンに教皇座をおいている。